〜モノクロの世界からカラフルな世界へ〜
capture1 始まる「孤独」との戦い
ただただ、周囲の意見に流されて生きてきた人生でした。
父の仕事の関係で2〜3年に1度転勤。
その場の環境に馴染むため、親に嫌われないようにするために、
その時、その場所の雰囲気を感じ取って問題なく過ごせるようにと
無意識に周りの雰囲気を感じ取り選んでいました。
高校、大学も流れるままに、決まっていきました。
就職活動も、一般企業や警察など7つも受けたけれど、
最終的に合格したのは小学校教諭1つだけ。
「行くべき道はこっちだよ」と言われたかのように、流れるままに教員の道に進みました。
初任1年目は5年生の担任。
初任1年目で小学校5年生を担任するのは異例なことでした。
敏感な時期の子どもたちへの対応にあたふたし、
教え方も未熟だったので、毎時間不安の中でやり切り、
分からないことだらけで、連日3時間以上の残業+土日も残務に取り組む。
心折れそうになったりもしましたが、
採用同期と夜ご飯を食べたり、
一緒に遊んだりと支え合いながら日々を過ごし、
支えてもらった同期の1人と結婚しました。
そして第一子の妊娠・出産。
いざ、実家から戻って我が子との生活をスタートしてみると、
想像していた子育てとは180度違ったものでした。
夫は朝早く出勤して夜遅く帰ってくるし、
休日も部活動指導のため、ほぼいない。
完全なる「ワンオペ」のスタートでした。
家には私と幼い長男だけ。
誰と喋るわけでもなく、ただただ過ごす毎日。
何もかも初めてで、正解がわからなくて不安な日々に
そばにいてくれる人はいませんでした。
親を頼ると、親に「私はできていない。親失格だ」と思われてしまう。
そう言った考えから、なかなか頼ることはできませんでした。
常に「孤独」との戦いでした。
capture2 あたらしい世界での出逢い
そんな中、ぼーっと見ていたSNSで
「0・1・2歳のママのためのイベントデビュー」というイベント投稿を発見。
車で30分もかかる場所に、
しかも知らない人だらけのところに
1人で赤ちゃんを連れて行くなんて無理!!と思ったのですが、
どうしても状況を変えたい!
と一念発起して参加することにしました。
重たい足取りで会場に入ると、見渡す限りママさんと赤ちゃんだらけ!!
こんな場所があるのか!!と衝撃を受けました。
そこで出会った1人の人と仲良くなったことをきっかけに
色んな場所に行くようになりました。
SNSで知った「料理教室」や「子育て講座」
「ベビーマッサージ講座」など【我が子のために学べる場】にたくさん参加しました。
違うものを学ぶたびにワクワクする心。
仲間が増えて行く感覚。
子育ての先輩に出会い、
困った時にはアドバイスを求めることができたり、
実際にやってみることで『なんか、うまくいった!』ということが増えてきました。
だんだん子育てに自信がついて
「我が子のために」学びに行っている自分が素晴らしい!
と思うようになりました。
capture3 現実の世界に戻る
そんな楽しい日々でしたが、
あっという間に1年間の育休は終わりを告げました。
当時の私は、育休を延長するという選択肢は頭になく、
家も建てちゃったし、「子育てにもお金が必要だから働こう」と
なんの疑いもなく復帰しました。
しかし、順調にはいきませんでした。
初の集団生活の長男は風邪をもらい、
発熱するので仕事を休んだり、実家に預けて出勤したりしました。
そんな中でも、夫は変わらずに、
ほとんど育児と家事に関わってくれないまま。
やっぱり仕事と家庭との両立は厳しい。
と思ったのですが、職場にママさん先生はたくさんいました。
中には4人お子さんがいる方も。
そんな方も仕事をしているのですから、
子ども1人だけの私にもできるはずなんだ!と
自分の気持ちを忙しさで亡きものにして過ごしていました。
capture4 自分ってなんだろう
復帰後1年足らずで次男を授かり、また産休・育休に入った私。
1回目の育休は、目の前のことが楽しくて、集中していました。
しかし、2回目の育休では、前回の時には見えなかったことが見えてきて、
なんて世界は広いんだ!!と感動し、
さらに色んな人に会いにいったり、講座を受けてみたりしていました。
ただ、家に戻ると現実が待っていました。
相変わらず帰りの遅い夫。
育児に関しても何もしない。
毎日、掃除洗濯などの家事をこなし、子どもと一緒に過ごし・・・の繰り返し。
何かしたいんだけれども、何をしたらいいのかわからない。
なんかのためになるかも!と思って講座を受けても、効果があったのかがわからない。
あっちに行ってはこっちにいき・・・とフラフラしていて
「全く変わってないじゃないか。自分の軸がない。こんなんじゃダメだ!」と思い
意を決してマインドを整える講座に参加することに決めました。
一緒に参加している人と話すことで、
悩んでいるのは私1人ではないんだと分かりました。
安心・安全な場所で、悩みを打ち明けることができる。
泣くことができる。
他の人の意見に共感することができる。
たくさん交流する中で、今までの自分を振り返り、
“自分は何を大切にして生きていきたいのか”という
「自分のコア」の想いに少しずつ近づいていきました。
自分は周りの人の目を気にして生きてきていて、
他の人のために自分を犠牲にしてきたんだ。
すごく我慢してきたんだ。
だから、これからは自分のために生きていこう。
capture5 次々とやってくる困難
しかし、この育休も1年間で終わらせました。
理由は前回と同じ。暮らすためのお金が必要だったのです。
この育休明けと同時に職場が異動になりました。
新しい環境。
幼い頃に転勤族だった私はワクワクしました。
そして、復帰1年目で必ず訪れる、子どもの発熱。
両親も働いていて急な対応は難しいものがありました。
夫に話したところ「急に休むなんてできない」と一点ばり。
当時、私は通常級の担任をしていて、
欠員がいるなどの学校事情的に急に休むことが難しい状況でした。
休んで我が子の元に駆けつけたい。でも、どうしても仕事をしなくてはいけない。
車で30分ほど離れた、隣の市にある病児保育に預けて職場に戻ることにしました。
勤務を終えてから、次男をお迎え。
その後、年中さんだった長男がいる保育園にお迎え。
帰ると18:30を過ぎていました。
翌日から3日間ほど、病児保育へ預けての出勤が続き、
やっとよくなった!!と思い通常通り保育園に預けたら
勤務中に「熱が・・・」とお迎え要請。
両親も働いている。旦那は「急には休めない」
預け先が見つからず、また病児保育へと連れていって勤務。
これが1週間近く続きました。
もう限界でした。
お迎えのために運転する車の中で
King Gnuの「白日」を大音量で泣きながら聞いていました。
でも、仕事を辞めることを選択することはしませんでした。
他の先生方も、きっとこういう状況を乗り越えることができたんだもん。
と言う思いがあったから。
そんなことが起きた翌々年度。コロナがざわざわし始めた2020年。
学校の人事の関係で特別支援学級に配属されることになりました。
通常学級とは違い、
特別支援学級は子どもの表情、仕草などをじっくりと感じ取り、
やるステップを細かくしたり、ハードルを高くしてみたり・・・と
試行錯誤しながら取り組む学習をしました。
いい意味で、マニュアル通りに進むことなんてほとんどなく、
毎日が新しいものと出会い。
私も楽しんで仕事ができるようになっていきました。
この仕事の仕方・・・子どもへの接し方に心の余裕ができたのか、
私は3人目を授かりました。
そして、三度目の産休・出産・育休。
当時長男は年長さん、次男は年少さんでした。
翌年度、新1年生になった長男は、
幼稚園や保育園で一緒だったお友達も一緒だったので、
最初の方は楽しく過ごしていました。
しかし、5月ごろに40度の発熱が1週間近くも続いて休んだのをきっかけに
学校の行き渋りが始まりました。
最初なんで行きたくないのかわからなかった私。
そして、親が「先生」なのに行かないってどういうこと??考えてしまいました。
学校に行くものだ!と決めつけて、
三男を抱えながら、嫌がる長男を必死になって学校に連れていきました。
時には泣き叫んで嫌がる長男を引き摺り出して
車に乗せて学校に連れて行って、学校の先生に引き渡す・・・
今思い返せば、「拷問」とも捉えかねないことをしていたのです。
そんな中、次男の幼稚園のクラスにコロナ罹患の子がいたために
学級閉鎖になりました。
まだまだコロナの対応が厳しかった頃です。
次男が1週間、登園禁止。
家から出られない我が家。
長男を学校に連れて行かなくて良い状況になりました。
次男が登園できなくなって三日位たった時。
長男が突然、【俺、学校に行かない】と宣言したのです。
まさか、ね。
本当にそんなことにはならないよね〜なんて思っていたら、
まじで行かない。
青天の霹靂でした。
なんかよくわからない。
学校に行かないってどういうこと?!
と思うと同時に
もう無理矢理引っ張って泣き叫ぶ彼を
学校に連れて行かなくてもいいんだ
と安堵しました。
しかし、学校に行っていない長男を連れての外出はハードルが高いものでした。
平日にお店に行こうもんなら、「なんで子どもがここにいるんだ?」という
訝しがる視線が私たちに向けられました。
市が運営している子育て支援センターには
小学生になった長男を連れていくことはできず、
三男もまたいき場所を失ってしまいました。
それでもなんとか外出した中で
同じ不登校を選んだお子さんがいる人に出会ったり、
みんなで支え合って暮らしていく畑の中にあるコミュニティを見つけ参加したり
不登校を経験したこのその後を描いた自主制作映画を見にいったりと
いろんなものや人に出会っていきました。
私も長男も楽しい、と思えるような場所にいくようになって、
「暇だ」が口癖だった長男の様子が、
徐々に「これ、やってみたい!」と自ら動く、
本来の彼になっていきました。
その変移を見ていた私の両親は
「まずは楽しく生きていることが大切だよね」と
学校に行かないことを受け止めてくれるようになりました。
あともう少しで仕事復帰、という段階で異変が起きます。
ある日急に見えにくくなったのです。
なんか見えにくいなあ。
もともと、左右に視力の差があったのですが、
いつも以上に見えにくいことに気がつき
片目をつむってみたんです。
右目をむつったら、いつも通り。
左目をつむったら・・・・・あれ。
なんか、暗い。
視界の2/3が灰色のフィルターがかかっていました。
これはまずいと思い、地元の眼科へ。
検査をすると、
「すぐに大きな病院で検査してもらってください。紹介状を書きますので。」
と言われ、あれよあれよと言うまに札幌の病院にいくことに。
そして、札幌の病院で検査した結果、
先生が発した言葉は
『今すぐに入院してください』
でした。
え?!なんで?!
どうして??
「【多発性硬化症】の疑いがあります。このまま放っておけば、失明の恐れがあります。」
タハツセイ コウカショウ?
失明??
わけがわかりませんでした。
でも、早急に治療に取り掛かったほうが良いことだけは分かりました。
子どもたちはどうしよう。
三男は前日に2歳になったばかり。離乳もしてませんでした。
でも、そう言ってはなにもならない。
両親に相談し、親が色々と調整してくれたおかげで、翌日に入院することになりました。
当時は長男2年生、次男は幼稚園の年長さん。
幼稚園に連絡するなどバタバタと過ごして迎えた入院当日の朝。
行ってくるね♪
と明るく病院へ。
すぐに治療を開始しました。
症の度合いを調べるためにMRIを撮ったのと同時に髄液も採取。
最初は元気だったのですが、
髄液を取った影響で立ち上がることができなくなりました。
1週間以上ベットに横たわるだけの日々。
食べることすら激痛でできない。
ただ『今ここにいる』だけの私。
なんでこんなことになったんだろう。
今ごろ子どもたちはどうしてるんだろう。
なんのために生きてるんだろう。
悔しくて悲しくて涙が止まらない日々でした。
そんな時、ふとある曲を思い出しました。
優里の歌う『ビリミリオン』
なんとなく聞いてみると
”僕が生きてるこの時間は50億以上の価値があるでしょう
生きてるだけで丸儲け
これ以上何が欲しいというの”
”僕らが生きる時間は
決して安いものじゃないから
後悔しない人生を歩んでほしいの”
という歌詞に大号泣。
生きているだけでいいんだ。
後悔しない人生を歩みたい・・・!!
と強く思いました。
capture6 仕事復帰してからというもの・・・
病気の治療が落ち着いて1ヶ月弱。
私は職場に8:00〜13:00と言う時短勤務で復帰しました。
それは、三男の成長の過程をしっかりとみたいという思いと
学校に行かない選択をした長男、
新一年生になる次男への時間を確保するためでした。
教員で時短勤務を選ぶ人はほとんどいません。
(私も教員生活13年で出会った時短勤務していた先生は1人だけでした)
教務内容的に、なかなか時短勤務という働き方は難しい・・・というか
理解し難いものでした。
私は、子どもたちがいる時にしか職場にいないので
打ち合わせに参加できません。
他の先生方とわいわい楽しく雑談する時間もほとんどなかったです。
メールでやりとりはするものの、
特別支援学級の性質上、子どもたちの活動が変更になることもあり、
当日にならないとわからない部分も多々ありました。
また、学校という場所は1年間の中で、決まった時間、決められた場所で、
決められた学習内容をやっていきます。
それは、みんなが一斉に同じことをやって、平等に勉強できるためのカリキュラムです。
特別支援学級なので、普通学級よりはゆるかったとは思いますが、
「一人一人違って当然なのに、大多数に合わせなくてはいけない」
「子どもたちの『今』に合うような活動ができない」状況に
私は違和感を感じていました。
一番しんどかったのは、
学校に行っていない自分の子どものことをしっかりとみていないのに
他の人の子どもと接している、ということでした。
長男が学校に行かない状況で、仕事に復帰。
悶々と過ごしていった中で、新1年生になった次男が、徐々に学校へ行かなくなり、
夏休み明けにはほぼ完全に「不登校」と呼ばれる状態になりました。
仕事の間は、長男次男は家でお留守番。
何をしているのかもわからない。
そんな時に私は我が子以外の子どもと過ごしている。
そんな思いを持ちながら、学習発表会で6年生がやった劇をみていたら、
ふと
「今、目の前の子どもたちはこんなに頑張っている。
でも、我が子のこういう姿は見ることはないんだ。
今、我が子は一体何をしているんだろう・・・」
と、
寂しさと悔しさと虚しさが一気に湧き上がってきて、
体育館の後ろで涙していました。
「限られた時間」での教員の仕事についての厳しさ
「学校」を多面的に捉えたことで生じてしまう疑問点
今、我が子をみていないという虚無感
入院した時に『後悔しない人生を歩もう!』と決めたはずなのに、
そうなっていない現実が目の前にあることに気付きました。
違う!私はそうやって生きて行くことはしないって決めたんだ。
一度きりの人生。
子どもの成長は「今」だけのもの。
子どもたちと一緒に過ごす中で
いろんなことを共に感じて
「今」生きていることを楽しみたい。
そして、彼らが選んだ選択をしっかりと応援していける人になるんだ。
と決意を新たにしました。
capture7 大切なものを見つけた
色んなことが起きて、沢山考えました。
なんでこんなにも苦しいことが起きてきたんだろう。
なぜ私ばかりこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。
私が教員をしているのに我が子が「不登校」って意味わからないし。
常にワンオペ状態って意味わからない。
全部私が悪いわけ!?
・・・っていうわけでもないだろうし。
でも、嫌なことがはっきりして
同時に私の好きなこともはっきりとしました。
ただ、なんとなく・・・淡々と過ごす毎日はいや。
私は「今」をしっかりと味わいたいんだ。
今、目の前の子どもが何を感じていて、どんなことをしたいのかを知りたい。
そして、一緒に楽しみたい。
だから、教員という立場で授業をすることで、子どもたちと楽しんできた。
子どもの「今」は今しかない。
それは我が子に対しても同じ。
他の子どもの「今」はみているのに、我が子の「今」を見ていないのはしんどい。
私の子どもは3人。やっぱり、他の子とは違う。
我が子だからこそ、小さな変化、小さな「大切なもの」をしっかりと感じていたい。
前に進むための環境を整えて、支えてあげたい。
ただ放っておく、ではなく「見守っていく」んだ。
お金も大事だけど、お金よりも大切なものがある。
我が子の成長をそばで見守って行くこと。
子どもの安心の場をを準備して、困った時には支えてあげられる状態でいること。
「今」の感情を共有できる余裕があること。
一緒に経験できること。
それが私にとって「大切なもの」なんだと。
capture8 カラフルな世界へ
そう自分の中で確信した時に、
『来年度ではない。今だ。』
と思い、教頭へと「辞めます」と伝えました。
2023年12月。
やめることの影響が最小限におさまるタイムリミット。
教職員全体が人事異動で動き始める直前でした。
「もう一度考えてみたら?」
「やっている授業、子どもたちが本当に楽しそうだったから、力あると思ったよ。」
「普通学級で授業したいんだなあって思ってた」
「旦那さんともう一度話し合ってみて」
「13年も続けてるんでしょ?もったいないなあ」
と色々と言われました。
でも、全然気持ちは変わりませんでした。
『もう、この子達と4月からは会えなくなる』
改めてそう思った時
目の前の子どもたちの『今』をしっかりとみてあげよう
二度とはこない『今』を、この瞬間を楽しもう
一つ一つのことを丁寧にしよう
という意識が強くなり
残り3ヶ月弱の子供たちと過ごす時間は
ただしんどいものではなく、とても楽しいものへと変化していました。
子どもたちに職員の異動の手紙が配布された3月末。
卒業生が「先生辞めちゃうから会いに来た」と言ってくれ、
修了式、離任式当日には
仲良く話していた子が私のところに来て、
涙ながらに「ありがとうございました」と伝えてくれ、
先生になってよかった
と心から思うことができました。
そして退職した2024年4月。
夫は3年間の海外赴任がスタート。
正真正銘の「ワンオペ」がスタートしました。
周りからは『大丈夫?』『一緒に行けばよかったのに』と言われましたが、
全然気になりませんでした。
朝ゆっくりとおきれる
子どもたちと一緒に朝ごはんを食べられる
毎日兄弟喧嘩は起きても、落ち着いて子どもたちのことを見てあげられる
寂しい時に、ぎゅっと抱きしめてあげられる
そばにいてあげられる
それだけで全然違っていて、今まで以上の幸せを感じました。
長男、次男が『不登校児』となったことで、たくさん悩みました。
でも、今はその経験があったからこそ、
たくさんの人と出会い、親子で心も成長してこれたと思っています。
この経験が自分たちの糧となり、「今」を楽しく生きているんです。
学校以外にも「学び」はたくさんあることも知りました。
それは関わっている人々の姿から、環境から、
そして日常生活からも学ぶこともあると分かったんです。
自分でやってみて感じて学ぶ事で、忘れられない知識・技術になるんだということも。
そこから、
『同じ思いで辛い思いをしている親御さんに、少しでもラクになれる場所を提供したい』
『我が子のように学校に行かない子、行きたいのに行けない子が
安心して過ごせる子どもたちの居場所を作りたい』
『一緒に楽しいことをしていきたい』
『今感じたことを共有したい』
という想いがフツフツと沸き上がってきて
不登校と呼ばれる子達のための安心で安全な居場所
そのままでいいんだと思える場所
やりたいと思った時にやれる環境
そしてその子の親も気持ちが楽になれる居場所を
SNS上ではなくリアルなこの世界で作ること
その人自身が「自分で選択できる」場所を、身近なところに増やすこと
をしていきたいと強く思いました。
そんな思いから、「toi toi toi」という名前で少しずつ活動をスタートさせました。
・*ーーーーーーーーー*・
toi toi toi
・*ーーーーーーーーー*・
「トイ トイ トイ」
幸運・成功を祈るドイツのおまじないの言葉で「きっと上手くいくよ」「大丈夫」という意味を持っています。
なんか知らないけれど、ここに来たら楽しくなってくる♪をテーマに
せっかくこの世に生まれたのだから、
一度しかない自分の人生を
色んな感情を感じて自分だけの何かを見つけられるように。
世の中にはたくさんの価値観があり、
たくさんの場所があり、
たくさんの人がいる。
いろんな視点、角度から見ること
それらに触れることで、自分の想いははっきりとしてくる。
見え方が違えば、意見も変わってくる。
だから、いいも悪いもないんです。
学校がいい とか 学校はダメ とかではない。
居場所の一つとして「ある」んです。
今私たちがいる世界は
色鮮やかな世界です。
目で見て、耳で聴いて、鼻で嗅いで、口で味わって、肌で触れて
「今」を感じて過ごしていますか?
なりたい自分、なりたい未来に向かって
「今から変わるんだ!」と自分で決めて
まず一つ行動してみてください。
そんな、私なんて・・・と不安があるかもしれません。
でも、大丈夫。
1人ではありません。
最近では「不登校」や「第3の居場所」など、
いろんな情報がテレビで特集されたり、
SNS上にもたくさん出てくるようになりました。
同じような思いを持った人たちはたくさんいるんです。
その人たちの想いを知り、同じ部分違う部分を見つけることで
自分だけの想いがはっきりとしてきます。
でも・・・
会ってみたい人に直接お会いしてみる、
お話ししたい人にお声がけするというのは
かなりハードルが高いことだと思っています。
だからこそ、自分の好きな時間に好きな分だけ見ることができる「ブログ」で
【自分の想い】を見つけるためのツールの1つにしてもらうために
私はブログで日々の出来事や私の心の葛藤などをありのままに発信しているんです。
リアルでいますぐ会うことは難しいかもしれませんが、
オンライン上であれば会うことができます。
メールなどでお話をすることだって出来ます。
あなたの気持ちをお聞きして、想いを共有することもできます。
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13年間の教員生活で培った経験と
我が子が不登校になったことで見えてきた考え
当事者である子ども(私)の心の変化などをお伝えしていきます。
ご質問など、直接やりとりもできるので、ご興味があればご登録くださいね。
このブログが、『しんどいと思ってしまう子育て』の中に隠れてしまっている
【子どもたちと過ごす楽しさ】や
【日々成長する子どもたちの「今」】にフォーカスして
力を抜いて楽しんで子育てをしていけるヒントになっていたら嬉しいです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。